「死んでもいいよ」と言われた時にようやく許された。

最終更新: 7月26日


あたしは希死概念が強かった。

何度も自殺未遂をした。

OD(大量服用)から、リスカから、飛び降りからと、

とにかく死にたかった人だった。


けど、あの閉鎖病棟で出逢ったあの医師に言われた言葉は


「死んでもいいよ。死にたかったら死んでもいいよ」


という言葉があった。


「ただし、約束をして。

人に迷惑かけないで。富士の樹海の片道切符だけ持って行ってね」


そう言われた時に

ようやく


許された気がした。


心が緩んだのだ。


「いいんだ。あたし死んでもいいんだ。よかった」と。


それは、

「絶対に死んだらあかん!」とか

「死ぬのだけはやめて」と言われ続けて苦しかったのだ。


理由は今ならわかる。


選択肢がひとつしかないからだ。


「生きる」という選択肢しかないからだ。

「死ぬ自由」が許されなかったからだ。


けど、

「死んでもいいよ」と言われて

「生きる」と「死ぬ」の選択肢が増えた時に、


あたしは初めて

「あぁ、生きてみよう。ちゃんと生きてみよう」と心から思えたのだ。


だから、あたしは思う。


「死ぬ」という自由までも人から奪う権利はないんだ。


愛する人がどんな選択をしようとも

それすら受け容れる。


そりゃ、あたしだって大切な人に死んでほしくない。


けど、それはあたしの意見であって、

この意見を押し付けてはならないのだ。

意見は意見であって、

その意見を採用するかしないかは、


当人が決めることなのだ。

当人しか決めれないのだ。


「生きる」ということが苦しすぎる時がある。

そういう人もいる。

「死」という世界しか見えなくなる時がある。


その世界を、見る視点までも

止める権利は誰にもないんだ。


そして、

「死んでもいいよ」というのは、とても怖いんだ。

発言する人も怖いんだ。


でもなんで言えると思う?


相手のどんな姿も好きだから。

信じてるから。

相手のありのままを信じてるから。


だから言える。


そして、

どんな選択をしても

それすらも受け容れてるからこそ

「死んでもいいよ」という発言が出来るんだよ。


それは、冷たい人間じゃない。

冷酷なのでもない。


愛情というものでしかないのだ。

深い深い愛情なんだよ。


娘がお腹の中で死んでしまったらと不安になったことがある。

その時、優希くんに言われたのだ。


「君はこの子に死ぬ自由も与えないのか」


と。


ありのままの全てを受け入れ全てを愛するとは、

我が子が例え

「死」を選んだとしても、

それすらも許すということなんだと

許可するということなんだと

最近ようやく理解した。


「死んでほしくない。絶対に生きて」

というのも

愛情。


「死んでもいいよ」というのも

愛情。


ただ形が違うだけ。







例えば、 子供達が大きくなって、人生の何かに絶望したとして

「どうしても死にたい。お願いだから死なせてくれ」と懇願されたら

私は許可できるのだろうか。

とてもじゃないけど、今すぐの答えなど出ない。


理由は死んでほしくないからだ。

いつまでも

「生きている姿」を見ていたいからだ。

どんな姿でもいいから

「存在してて欲しい」からだ。


けど、これは私のエゴなのだ。

私のわがままであって

これを押し付けてはならない。


「生きなさい!絶対に死ぬなんて許さない!」

という言葉は


「生きて欲しい。死んで触れれなくなるなんて絶対に嫌だ」

という心からの私の願いであって、


この「お願いする言葉」を

命令形にして逆らえない状態にしてはならない。


命令形にして逆らえない状態のことを

「押しつけ」というのだ。

それは相手の意見や考えや生き方を全く尊重していない。


それは相手から考える力を奪って

都合の良いお人形を作ってるだけなのだ。


それでもきっと私は言ってしまうだろう。

「死んでほしくない。生きて欲しい。」と。


でも必ずそこにこう付け加えるだろう。

「けれど、これはお母さんである私のわがままです」と。


「生きて欲しい」という気持ちと

「あなたが満足する人生なら」という気持ちは


時に真っ向から正反対に位置することがある。


その時、人は葛藤し、悩み、苦しみ

相手にとってどれが最善か。

もっというなら

相手と自分にとってどれが最善かと

心を痛めることがある。


そこに「正しい答え」などない


あるのは

必死に悩みだした答えだけ。


精一杯に答えをだす。


それしか人間はできないのだ。


そしてできることなら

「死」に向かって思考があってもいい。

けれども

その足が

「生きる」という方向に向かってくれたらと

私は願うだろう。



どこまでいっても、

人は本来、自由なのだ。

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