日本赤十字社大阪府支部が育てた子供。「人間の根源を知る」3

最終更新: 2019年11月6日

救命救急法とは、

簡単に言うと応急処置だ。

救急車が来るまで「一人の人間として」できる範囲のことをする。

それが、

「救命救急法」だ。

上の説明だと、とても曖昧なのがお分かりいただけるだろうか。


「救急車が来るまで【一人の人間として】できる範囲のことをする」


その範囲が人それぞれ限られていて、そして目の前で倒れている人の

怪我の具合や状況に応じて常に変わる。

そこに対して「正しい答え」などない。


ない。

ないのだ。


私たちJRCの子供はそこに常に立ち向かう。


なぜか?

簡単だ。


人間だからだ。


少しここからは雰囲気が変わることを先に伝えておく。

書いてる私自身もできるだけ冷静に正しく情報が伝わるために

私情を隣に置いて書くことに努めている。

冷静に冷静に自分を保つことを努めている。


けれど、それがとても凶暴な何かになるのではないかと怖い。

何か、どこかで読んでいる「誰か」の心を痛めてしまわないか

そればかりを考える。

「真実」と「真意」は誰もが知りたいことだ。

けれども、それが行き先を間違えれば鋭利な刃物に変わってしまうことを

よく知っている。

よく理解している。

そしてその行き先が「間違い」なのか「正しい」ことなのか

それをどれほど模索してもどこにもないことも知っている。



さて、

救命救急法とは、

まず、怪我をしている際にする

「止血法」

そして

心肺機能が停止してる時に行う

「心肺蘇生法」

この二つに大まかには分かれている。


心臓は動いてる、けれども怪我をしている。

ならば怪我に対する処置をとる。

怪我はしていない。けれども心臓が止まっている。

ならばその心臓に対する処置をとる。


例えば、意識があり、心臓が動いていたとしても、出血していてて、

しかもそれが大量に出血してたら、それはそのままにしておくと

「死」になってしまう。

例えば、意識もなく、心臓が止まっている。けれども肌が暖かい。

まだ可能性は十分ある。

それを放置してしまえば

「死」になるが、

まだその段階ではない。


なぜ、その段階じゃないかと言うと

「死」と判定し断定できるのはこの国では

「医師」だからだ。


そうではない私たちにその判断をすることはできない。

できることは、

今その時自分が持っている全ての力を使う。

これだけだ。


赤十字社が見ているところ、ここでは

「生」しかない。


「生に対する尊厳」と

「死に対する尊厳」は、

コインの裏と表だ。

一つで二つのものだ。

それを分けることは不可能なのだ。


JRCの救命救急法とは

「自分が第一発見者だったらどうするか」と言う想定のもとで

行われる。


そこで大切なことは

「安全確保」と言うことだ。


目の前で人が倒れていた。

自分の身の回りと倒れている人の周りの安全を確保できたら次に移る。

息をしているのか、脈はあるのか、意識があるのか。

怪我をしていたら、どこを怪我したのか、どれくらい血が出てるのか

骨折なのか、頭は打ってないか、とその時その時に応じて確認を取り

次に移る。

例えば、脈がない、意識もない、心肺が停止していると

確認が取れたら

まず、気道確保する。

倒れている人に息が肺まで入りやすい状態と思って欲しい。

体の締め付けているものを外して、

口から口にダイレクトに自分の酸素を送り込む。

そして横隔膜あたりの場所を確認し、胸の真ん中に向かって

両手で押す。

(もちろんAEDもあるが、

今は自分の体を使って、できることに焦点を当てて書いてる。)


と言う感じで一連の流れがあるのだが、

その中で一番最初に行われるのが、

この

「安全確保」だ。


16歳の高校一年生の夏。

救命救急法の授業で説明を受けてる時に私は質問した。

「ずっと思っててんけど、なんで安全確保そんなにするん?

救急車が来るまでの9分ってさ、1分でも勿体無いわけよ。

1秒でも早く処置したいんやけど、処置の時間を割いてまで

安全確保に徹する理由がわからへん。」

と。


森さんが言った。

「うん。なるほど。じゃあ、想像して欲しい。

倒れている人がいた。お前がすぐに駆けつけた。

その場所が今にも崩れ落ちそうな瓦礫の中だとしたら?

今にも倒れてる人を助けようとしてるお前の頭にレンガが落ちてきそうやったら?」


安易に想像ができた。

私たちは当時のメンバーが全員、阪神淡路大震災を経験していたり体験していたからだ。


「そこでお前が心肺蘇生をしていて、お前の頭にめがけて

レンガが落ちてきたら?

どうなる?

お前も含めて、助けようとした人2人はどうなる?」


息を飲んでしまった。


「・・・意味がなくなってしまう・・・」

と小さく私は答えた。


助けたいと思って行動してもその人自身が安全でなければならない。

軸となる人がまず徹底して

「安全で安心のある状態」で

「最低でも自分で自分をなんとかできる状態」でないと

助けることもできないと私は知った。


そして実際、心肺蘇生法は体力が必要となる。


汗だくで心肺マッサージをする。

息を入れて胸を押す。

しかも正しいところにダイレクトに力が向かうように

一点に集中してひたすら押す。

息を入れる。胸を押す。

繰り返し繰り返しこの動作を続ける。


5分もすると切れ切れになる。


「はい終了」


と言われて、全員でその場で倒れこむようにへたってしまう。


「あかん!しんどい!森さん安原さん!

息ができない!酸素ボンベちょうだい!」


「大丈夫や!そんだけ喋ってるからちゃんと息してる!(笑)」

「ほんまや!めっちゃ息してるわ私!」


医師や看護師、助産師に、医療に準じてる人が本気ですごいと痛感した。

できない。

やろうと思ってできることではない。

少なくとも私には無理だ。


こう言うやり取りを繰り返し行う。




そうやってしていくとあることが見えてくる。


「第一発見者が助けたいと思っても、自分が今どこまで出来て

何が出来ないかをとても知る必要がある。

個々に出来る範囲は違う。

出来ると思ってしたこと、出来ないと判断して次の人に託すこと

そこにあるのは

「助けたい」と言う気持ちで

その「気持ち」が大切なんだ。

出来ないことまでも「出来る」と言うことは可能だ。

けど、それが取り返しのつかないことになるかもしれない。

その時、出来ないと判断をして、

それを出来る人に託しお願いをするその勇気は尊いものなのだ。

そうやって出来ることと出来ない事の、でこぼこ加減を

みんなで補い助け合う事でまるでパズルのピースが綺麗にハマるように

私たち人間は【出来ている】」


と言うことを私は知った。


そして実際にこのJRCの合宿では自然とみんなそうやって

集団で生活をしていた。


過信と盲信が怖いと知った。

「思ってる以上に人間には出来ない事があるんだ」と。

「私は私が思ってる以上に色んな事が出来ない。」

そして同じだけ

「私は私が思ってる以上に出来るところも沢山ある」

と言うことを私は色んな人から学んでいるんだと

理解していった。

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